鮮やかな蛍光ピンクの松葉菊。
毎年同じ所に咲きます。葉は水分を含んでぷっくり。松のように細長い葉から松葉、菊のような花からこの名前が付けられました。
ちなみに花が牡丹の花に似ているものは松葉牡丹で、親戚のようなものでしょうか?
松葉牡丹で松葉菊の画像も出てきたりし、違いもあまり広くは認識されていないよう。
松葉牡丹というと、昔、母が歌っていた歌を思い出します。
歌詞は定かでないのですが、「お母様、松葉牡丹が咲きました。」で始まり、お空の上で見ているお母様に語り掛ける歌でした。
子どもだった私はその歌を聞くと、母がいなくなることを想像して恐ろしく、悲しくなりました。
幼い頃に母を亡くし、その後2人継母をむかえた私の母は、どんな気持ちでこの歌ったのでしょうか?
母を亡くして今、松葉牡丹を見ると、大嫌いだったこの歌を口ずさんでいる私です。
この歌を知っている方がいたら是非、歌詞を知りたいものです。
「思い出」カテゴリーアーカイブ
命の授業
例年だと梅雨明けくらいにセミが鳴き始めますが、今年は梅雨に入って間もなく鳴き出しました。
先日ネコがベランダに出たいと騒ぐので、出してやり、暫くして見ると弱ったセミにちょっかいをだしていました。
慌ててネコを追い払い、仰向けになったセミを裏返そうとすると、手足を動かしています。コットンにメープルシロップをしみ込ませ置きましたが、その上を上って移動して行きました。
ベランダのフェンスの上に乗せると、最後の力を振り絞って飛んで行きました。
セミは長い間地下で眠っていて、地上に出てからの命は短い。だから採っては可哀想。それを繰り返し教えてくれたのは母です。
そのせいか、セミの亡骸を見つけると悲しくなり、虫網を持った子どもたちを見ると「採らないで上げて」と思わずにはいられません。
晩年は体の不調によって、思い通りの生活が出来ず、我儘で自分のことしか考えられなくなった母ですが、優しい気持ちを持てる人でした。
怪我をした飼い犬の足に薬をつけ包帯を巻いていた姿。
瀕死のひよこを胸の中で温めていた姿。
小さな生き物ばかりではありません。
夏になると必ず原爆の話しをしてくれました。
他者に対する優しさはこうした体験からこそ教えられるものではないでしょうか。
母を送る時
母の愛に包まれて
エルニーニョ現象で妙に暖かいこの頃ですが、週末には寒気が到来とか。
少し前の寒かった時、自転車の後ろに乗せた幼児を、ストールやブランケットで包んで走っているお母さんを見かけました。
流行ってる?と思うほど何人も。
垂れた布の端が車輪に引き込まれるのでは、何かに引っかかるのではと見ていてハラハラしました。
でも子供を思う親心は分かります。
先日はダウンコートの内側に、前抱きした赤ちゃんをすっぽり入れて歩いているお母さんを見かけました。
今のように色々なものが便利でなかった私の幼い頃。
真冬の日にバスを待っているのは本当に寒くて、そんな時には母がコートのボタンを開けて、その中にすっぽり私を包んでくれたのを思い出しました。
きっとお母さんにすっぽりと包まれた思い出のある子供は、その温かさを生涯忘れないでしょう。
喪中とは?
早くも年賀状の季節がやってきました。
今年は大切な方を相次いで4人も亡くし、年賀状もやめたい気分です。
喪中と調べてみると、3親等までの中で亡くなった方があれば、年賀状の代わりに喪中はがきを出すとありました。
勿論、伯父(叔父)伯母(叔母)の関係であっても、自分との親しさ、相手に対するの気持ち次第で、出すのは自由とのことでした。
近頃はペットが死んでも、喪中を出す方もあり、それを扱う業者もいるとか。
私も18年生きた愛犬が死んだ時は子供を無くした気持ちでしたので理解は出来ます。
その上で、年賀状とは新しい年への宜しくという挨拶、、受け取る方の幸を願うもの。
自分の個人的な悲しみを伏せるのも大人の流儀のような気もします。
ということで、今年も年賀状を出すことになりそうです。
幻の万国博覧会
8月27日の読売新聞の社説に「1940年に開催予定だった「万国博覧会」の話が載っていました。
紀元2600年を記念してオリンピックと共に開催が計画され、第二次世界大戦勃発で中止になったものです。
会場は現在の東京中央区晴海で、それに合わせて隅田川の勝鬨橋も造られたそうです。
しかし前売り券100万冊(12枚つづり)は既に発売されていました。
それが1970年の大阪万博で3077冊、2005年の愛知万博で96冊が使われたというのです。
それが使えるという驚きと共に、戦火の中、また長い歳月の間、大切に持ち続けた人々が居られたことに深い感動を覚えました。
そこには「未来への希望」を持ち続ける姿がみえました。
私も1970年の大阪万博には関東地方から出かけました。
その時は気が付きませんでしたが、平和になったからこそ実現したのですね。
そして私自身、あの時訪れた地に今は長く住んでいることの不思議を思います。